数年前、ちょっとした縁があって知ることとなった桑原滝弥くん。その頃には彼がTOKUZOなどを拠点として詩の朗読をしているということは知ってました。「詩のボクシング」に出演してたり、「PO・E・DA・SHI」というポエトリー・リーディングの企画をしていたりということなど。
で、時折彼はふらりとうちに来てくれて、注文はいつもアイスコーヒーで、いつも背は低く腰はさらに低く、にこにこしてるんだけども何やら内にあるものは凶暴そうな感じに満ち満ちている、そういう印象でして、けど機会がなくて彼の朗読を聞く機会はこれまで一度もないのでした。

で、今日はそれを見る、聞く、初の機会であり、しかもうちでのライブでした。

「詩」って、なんでしょうか。
ずっと昔、谷川俊太郎の「コカコーラ・レッスン」だったかな、あれを読んだときは、「詩ってなんだかわかんないけど、本人がこれが詩だというなら詩でいいし、詩がなんだかわかんないけど、なんかこれは好き」と思いました。
作家の川上未映子さんの作品は、やっぱり詩の定義と言うものがわからないけど、私はこれが大変好きだと思う、そういうものであり、それは「詩」でも「短編小説」でも受ける私はどちらでもかまわないんだけども、作るほうは「いやこれは小説ではなくて、詩」という定義があるのでしょうか。
桑原くんのも、「詩」なのか「戯曲」なのか「小説」なのか、なんなのか。
ただ、彼の作品の中の言葉に、煌いているものをいくつか感じました。そして面白いなと思いました。

彼のスタイルは、彼が芝居もする人であるだけあって演劇的で、私の好きなスタイルでした。
お?
ところで、「詩を朗読する」と「演劇」の差はなんだ?と思いました。私も芝居をやってたので、どうしても演劇的発想になってしまうのです。
「朗読」は、言葉が書かれている紙を持って、それを読みます。しかし「演劇」の場合は、その言葉はすべて暗記してて、それを発語します。「読む」と「演じる」の差がありますが、桑原くんの場合ではその差はそれほどないように思えます。
何故、彼は、この大量の言葉が書き付けられた紙を打ち捨ててないのだろうか。何故、あくまでも「読む」のだろう?
それを考えてて、途中で、あ、そうかと思い至りました。
それは「時間」の問題なのか。
つまり、演劇の場合、言葉を暗記すると言う時間が、まず必要です。でも「朗読」は、可能性としては、今書いたものをすぐに読む、ということが出来ます。そういう即時性を持ったものでもあるわけです。
今日感じた桑原くんにおける「朗読」と「演劇」の違いって、それかなあー。

などということなど、いろいろと考えてました。
いつか機会があったら、彼とそんな話などしたいなあ。