終わる。帰る。戻る。始まる。

私は、もう2ヶ月も前に読んだマンガ、やまだないと「家族生活」のことがずっとずっと頭の中にあってさ。
産院に火をつけ、一人の赤ちゃんを盗んだゲイのカップル。その赤ちゃんに「ヒナ」と名付け、彼ら3人「家族」となって流転の日々をすごしている。
小さく膨らんだ胸で、手足がまっすぐに伸びた、絵からは10代後半にも見えるようなきれいな、でもまだ12歳の少女「ヒナ」。そして2人の「パパ」。
ヒナは、きっとなんでも知ってて、だからいつも知らないフリ、楽しくて無邪気な子供のフリをしている。
で、ヒナは、「私が前に進んでいるのは、誰かが私を背中から押しているからだろうか、それともこっちへおいでと手を引っ張っているからだろうか」と独り考えている。
勿論それは成長の話。
けど、この作品から切実に感じるのは、怠惰な長い流れのようでいるくせに、まるで完全に近いような幸福の煌きの瞬間の日々。それは点のようだから、止まっていたい止まっていたい、そこに止まっていたい、どうして止まっていられないんだろうという決して得られない望み。


そういう感覚のことを、ずっと考えている。
それでも、私は毎日、「ちょっと先」を楽しみにしているな、と思い、そうか、そういうのが生きていく力なのかと思う。
今度あそこに行きたい、今度あれを読みたい、今度あれを食べたい、今度あの人に会おう、そういうちょっとずつの先が、私を前に、前に。
もう私は無条件に、無邪気に「前」を夢見ることなど出来ない筈で、だってそうやって前に行けば行くほど、私は老いていくし、誰かや私の別離や死は近付くばかりだし、時折、流れていく河の中に突き刺さっている朽ちた木にしがみつくような気持ちで「ここに止まっていたいな」と思うのだけども、すぐまた「ここよりちょっと先」のことを楽しみにしてしまう。
前に。前に。

旅行は終わりました。
終わる前日にはいつも、私が乗ってる飛行機なんて落ちちゃえばいいのに、と思います。もうここで止まって、ここで終わりで、それでいいやと思うのです。
でも、旅の最後の最後、空港で、もう今年はやめようと思ってた、近隣の方に渡す「義理のお土産」をバタバタと買い足しました。いかにもな「義理」はやめようと思ってたのに、でもこうした習慣は、旅が終わって、ここからまた仕事の「始まり」の小さな踏み台になるのだと、そう思えたのです。
落ちちゃえばいい、と思ったはなから、もう「あさって」のことを考えているのです。
お店のものもいろいろと買ってきて、明日の最後の休みは、お店の開店準備をすることを思うと、ちょっとわくわくしています。
前に行くしかないから、せっかくなら楽しく、先へ、先へ。
帰りました。
戻りました。
また始まります。