ゴダール「勝手にしやがれ」と「フォーエヴァー・モーツァルト」

月曜日はシネマテークゴダールの映画を観てきた。
勝手にしやがれ」と「フォーエヴァー・モーツァルト」。

勝手にしやがれ」の私のツボは、男が窃盗をし、あまつさえ殺人を犯したにも関わらず、あんなに気障で、そしてだらしなくて女好きで陽気な男で居続けたこと。そしてそんな最低な男なのに、殺人などよりも、好きな女が自分となかなか寝てくれないことや、事件を知ってその女が警察に通報したことに対し、彼女を「最低だ」と断罪する可笑しさ。
ラスト、死にゆく男が大きな口をあけて彼女に何か言い、なんて言ったの?と聞く女に側にいた警官は、何の遠慮もなく言う。
「あんたは最低だってさ」
ラスト、ゆっくりと女の真正面アップがとても不敵でステキ。
「最低ってなんのこと?」


「フォーエヴァー・モーツァルト
音楽が、まるで演劇のための劇伴で、しかもそれはまだ稽古で、稽古はしょっちゅう中断するから音楽もまたそれに併せて中断している、かのような、そんなとても独得な突然すっと消えるフェイドアウト
その音に併せて観ながらなんて散文的な映画なんだと思った。
でもしばらくしたら、散文的と言うよりは、膨大な情報が詰まっている映画なのかも、と思った。
例えばサラエヴォでの内戦のことは勿論、映画や演劇や劇作家や小説家や音楽や・・・・、そういった知識があればあるほど、目の前に現れる映像と発せられる言葉に、どんどんと扉が開いていくのかもしれない・・・。
しかし、残念ながら多くの扉は開かれなかった私にも、この映画は十分に強烈で面白かったけど。
映画の中で戦車など幾たびも見ていると思うけれども、何故かこの映画の中で前進してきた戦車はとても怖かった。
演劇上演のために戦火のサラエヴォに入り、まもなく捕まり捕虜になった男女3名、そのうちの2人は、1人が犯されそうになるところをも冷ややかなまなざしで見つめ、自らが犯されても、または処刑される段になっても、あまりにも冷静だった。彼女らの意思は哲学によって高みにあり、肉体の損壊などものともしないとでも言う様な。
なんていうか・・・・。怖かった。
ふと、「今」、この3月11日以降にいる私たちのちょうど「今」、このまま多少の波はあろうとも少なくとも自分はこのまま怠惰な展望の中で生きていけると漠然とした思いが裏切られたこの「今」と重ねて観てしまっていた。
もう戦争から遠く離れ、民主主義で、教育も受け、それほど貧しくもなく、過去に起こった戦争による悲劇、命を含めた自分の存在が辱められたり脅かされたり虫けらのように殺されること・・・などはもう自分から遠いのだとずっと思っていたのだけど、もしかしたらこの今よりも先、ありえるのではないか。愚かにも何度も繰り返すのか。まるで第2次世界大戦の頃のように、自ら穴を掘り、撃たれて殺されて、カミーユのように穴の外に白い足を晒すことは、ありえるのではないか・・・。


さて、そのシーンから、話は最初の映画の撮影に戻っていく。
進展していかない映画。取り始めてまもなく、恐ろしいほど繰り返される1カット。何が要求されているのか、わからない。正解が、わからない。セリフは「ウィ」だけ。やさしく。苦しく。絶叫して。呟いて。何百回繰り返しても「ノー」と言われるだけ。
最後の、散りばめられた話を包むようなモーツァルトの曲を演奏するシーンとか。
登場人物の相関図も理解できなかったし、この映画を短くまとめたり感想を言うことも難しいのだけど、わからないままとても強烈に残る映画だった。