セデック・バレ

昨日はシネマスコーレで「セデック・バレ」1部2部を観ました。全部で4時間半ぐらい?
台湾は1895年の下関条約により日本統治下に入った。この映画は、1930年、台湾の先住民族セデック族による抗日暴動、霧社事件をなるべく忠実に映画にしたもの、だそうです。
映画は、台湾奥地の美しく厳しい自然、先住民族の生き方、身体能力の高いセデック族による見事な戦いぶりや、日本と台湾の歴史的背景、そしてキャスティングの良さなどなど見所たっぷりです。
えっと、映画を観ながら思ったことはいろいろ長くって、言葉にしたら随分と拙いものになりますが、残念ながらもっとよく考えて推敲したりする時間がないので、このまんま書き付けます。
さて、今、この2013年の日本では、改憲をもう少しスムーズにするために、まずは憲法96条を改憲しようと言う声が上がっています。96条を改憲したのちには、永久の戦争放棄、そして戦力不所持を明記した憲法9条改憲が待っているようです。
私は、96条は勿論、9条も絶対に変えてはならないと思っています。そこで必ず言われるのは、それなら他国からの脅威に対してどうなのだ、自分の力で国を守らなくてどうするのだ、という意見です。
先日、ふと思いました。
「守るため」って言葉は何やら美しく、攻撃ではないディフェンスだっていう理論だけど、殆どの戦争など「国を守る」ためのものだったのです。「国」とかいうものを守るために大量の個人が殺しあいをするものなのです。国って、なんだ?と問われるといろんな答えは出てくるけれども、いろいろ出していくうちになんじゃこの曖昧なものはって思うじゃないですか。言葉、文化、場所、思想、その国特有のものといわれているものだって、よく考えれば長い歴史の中でどれだけの変遷を得た結果、今ここにあるものなのか。そんな曖昧な線で囲まれたもののために、人が兵器となり楯となり死んでいくんですよ。そんな仕組み、もう絶対手放していくべきじゃないですか。
セデック・バレ」の映画の中のことは、それは台湾と日本のことだけでない、この世界が始まって以来、ずっと起こり続けていることなのです。欲望の拡張のために他民族と新たな場所の支配と開拓。それにより虐げられた人々の暴動。
セデック族の人々は、死んだあと、本物の勇者だけが虹の橋を渡ることが出来る、と言います。そこには祖先が待っていて、その場所は永遠に誰にも邪魔されない狩場であり、それが彼らの天国です。死後にそこにいくために、彼らの生は勇者であらねばなりません。勇者とは、敵と戦い、その首を落としたものです。それが彼らにとって大人の証、そして勇者の証です。
これを野蛮だと言うつもりはありません。
そうではなく、ずっとずっと昔から、人は、死後にある天国を夢見て、過酷な戦いを、そして死を選ぶことができるのです。ずっとそういう仕組みで生きているのです。
戦って相手を殺して、そうして獲得しないといけない誇り、生き方、幸福、があるのです、いつだって。そう、理由はいつもあるのです。
そうやってどの場所に住む人も、昔から今に到るまで生きてきました。けれども、もう、そうではない世界をもっと目指せないものか、その道は何処にあるのか。と、そんなことをこの映画を観ながら思ったのです。
生の理由はいろいろあるのだけど、国のためでも民族の誇りのためでもなく、ただ個人として幸せになるためだけで、それを全ての人が望んでも叶うことが出来る、そんな世界はいつか来るのでしょうか。