NANA 21巻

4月頭に読んだ、矢沢あいNANA」21巻のことを。
この巻で、主要キャラである「レン」が死ぬ。
いや正確に言えば、20巻ラストで死に、そのラストシーンを見た時に私も思わずぎゃああと叫んでしまいました。
で、21巻。
泣いて、読んでたのが店だったので涙で困ったことになりながら、またはある1コマに釘付けになったり立ち止まったりしながら読んだのですが。
途中、私はなんていうか、すごく驚いてしまったのです。
ここには、私が知った「死のリアル」が描かれている、と。

いえ、「死のリアル」は、本当はどういうものかわからない、かもです。
生きていくうちに、またはどんな生き方をしてるかで、その「リアル」は変わっていくのだと思うのですけど・・・。
ただ私は、レスリー・チャンと私の妹の死に面して知った、私にとっての「死のリアル」は、
「死に対する感覚は他人と共有できない」
ということでした。
喜びや楽しいことはいくらでも他人と共有できるのに。

「死」は、そこにある、ただひとつの事実、です。
それに対して、遺された人たち、というのも、ただひとつの塊、
「死」:「遺された人たち」
という1対1の悲しみの関係だと、ずっと漠然と思ってたのです。
「遺された人たち」は、たった1つのその事実を共有しているものだと思ってたのです。
ところが、大切な人の死に直面して、その死に対する気持ちを、同じように遺された人間と、ちっとも共有できませんでした。私はそのことに驚いたのです。
共有できない、いや本当は、したくない、なのだろう。
1つの悲しみを前にして手を取り合えると思っていたら、そうではなく、それどころか、
同じ事実を共有している人を、微かに憎んでしまいそうになる。
だから、死を受けて、なんだか気持ちにいっぱい掠り傷を受けていく。
その人の死と、私。
その関係だけがすっぽりと繭の中に入り、他のものを入れたくなくなる。
今、私が知っている「死に関すること」は、そういうことです。

で、「NANA」21巻に描かれているのは、そういうことだと思いました。
急いで私は後ろにある本棚を振り返り、「主要なキャラクターが死んでしまう物語」をピックアップしました。何冊かを取り出しては読んだのですが、そこにあるのは「死」と「遺された人たち」の1対1の物語ばかりでした。
しかし、「NANA」には、気が付けばレンの死を共有してなくて、それぞれに擦過傷をいっぱいつけながら孤独になっていく登場人物たちが描かれていたのです。
その、死の書き分けの違いに、とても驚いてしまったのです。