「痛い」にシンパシー&ワンダー

早稲田文学フリーペーパー、WB 2007年冬に出たvol.11に、未映子さんとマンガ家 榎本俊二の対談があって、私はこの回はとても好きなのです。
http://www.bungaku.net/wasebun/freepaper/vol011_0718.html

(川上)歌人穂村弘さんがね、「短歌という爆弾」の中でシンパシーとワンダーについて書いてはるんですが、ぐっとくる短歌とこない短歌の違いは、いわゆるシンパシー、共感と『これなんだ?』っていう驚愕の配合にあって、それこそが作品の骨なんだと。

私は未映子さんの作品を読むと、いつもこの言葉を思い出すのです。だってもう、未映子さんの小説を読んでる私の中ではいつも、激しく押し寄せるようなシンパシーと、それを真上から槍でもって貫かれるみたいなワンダー、その2つの感情が強く意識されるから。

川上未映子「ヘヴン」
群像 2009年 08月号 [雑誌]いろいろに読める。いろいろな解析ができる。でも私は読んで感じた順に感想を書いていくしか出来ないので、その感情を拾ってみます。

読んでいて、まず圧倒的なシンパシー。「僕」と「コジマ」に。
彼らの感覚、それは汗に粘る皮膚の感覚や、極度の恐れや絶望感。口をこじ開けられ、大きな石を無理矢理飲まされるような、あのずーんと重くなるいやな感じ。自分だけしかいない静かな自分の部屋の中でのほんのわずかな安息。今日と明日の境界などなんの意味も持たない、この泥の中を一体どこまで歩けばいいのかという暗い静かな恐怖。
そういうのが憑依して、それはもう読んでて苦しくて苦しくて。
それでもその先を急ぐ私の気持ちは、彼らのハッピーエンドを望んでいるのか、実はひそかに彼らの不幸を楽しんでいるのか。
ああ、そう、こんなに、こんなに、今このページから離れられないのは、私の中にきっと、間違いなく、彼らの不幸を楽しむ気持ちがあるからなのだろうと思ってひやりとする。

それでも、コジマが「いつか、ものになれますか」という件に、コジマがお父さんに会いに行って、お父さんが「ケーキを何個でも食べなさい」という場面に、ボロボロと泣いてしまう私はなんなのだろう。
ところが、「僕とコジマの物語」かと思って読んでいたのだが、コジマのある部分に何か小さな違和感が、トゲのように、そこかしこに仕掛けられていた。
「僕」とやりとりするコジマの手紙。重ねるうちに「ハロハロ」「こにゃにゃちは」と始まる書き出し。あれがなんか痛い。14歳で時代は90年代初頭で、けど、そういうことではないのだ、きっと。
日々苛められていて、暗く俯いているコジマが、体からは洗ってないような匂いが漂い、肌に汚れが黒く浮き出しているコジマが、そのことには触れずに送ってくるこの明るい書き出しが、なにやら不吉な痛さを感じるのだ。
けれど、1回目に読んだときは、最初はその痛さを少しだけ「感じなかったフリ」をしてやり過ごした。それはすでに、圧倒的なシンパシーで彼らを見ているモードになってしまっていたからなんだ。

しかし、中盤以降には、もう違和感を「感じないフリ」は出来なくなってしまう。
コジマが「僕」に向かい、「君は優しいのよ」と言い、苛める側に「あの子たちは可哀相なのよ」と言い出してから。



お店で、いろんなお客さんの会話が耳に入ってきます。
逃れられない人間関係のストレス。
それ故に、怒る。憎む。恐れる。不安になる。
ストレスはまだなくならない。
それらのストレスを解消するのは「納得」なのだ。
どうしてあの人はこんなことをするのだろう、と考え、そして納得する方法を見つける。
もっとも有効なのは「可哀相」なのだろう。
「あの人は、こんなことしか出来ないのだから可哀相」「こんなこともわかってなくて可哀相」
世の中は正義と可哀相に満ちていて、私の知らない人たちが、小さく固まって、そういう話をしているとき、私はなぜかイラリとしてしまう。
けれど実際はこれは有効なのだ。他人を少し貶め、上から「可哀相」といい、それでようやく納得して怒りや憎しみを納めることが出来る。きっと誰しも日々やっていること。
そういうカタチを、コジマは見せていく。
ボーイ・ミーツ・世界。
コジマの方法も、ひとつの世界のルール。


以下、後日続きます、たぶん。