「あがた森魚ややデラックス」

あがた森魚ややデラックス」
監修:森 達也  撮影・編集・監督:竹藤佳世
出演:あがた森魚 / 鈴木慶一 / 矢野顕子 / 久保田麻琴 / 緑魔子

「爆走シンガー60歳。全身全霊、迷走中!!」

だそうです。私がこれまでずっと持っていたあがた森魚のイメージは、この映画で随分とひっくり返ったなあ。
あがた森魚が60歳を迎え、還暦コンサートとして北海道から沖縄まで全国67箇所のライブ。そして東京九段坂ではちみつパイのメンバーや矢野顕子らと共に行ったライブ「あがた森魚Zipang Boyz號の一夜」。

うちの店でも時折ライブやってるし、休日にライブに行く時は、TOKUZOだったりハポンだったり。しかし、なかなか一人のミュージシャンのライブを追ってあちこち遠征に・・・は行けないんである。だから、今、私の目の前にある今日という「点」をとても楽しむし、その「点」しか知らなかったりする。
でも、演奏者にとっては、点ではなく線なんだよなあ。
この「惑星漂流60周年」と名付けられたライブも、実にさまざまな場所や環境で行われている。ライブハウスだけではない、渋いカフェだったり広いホールだったり図書館ホールとか光溢れるワイナリーでお客さんたちは敷物の上に座って・・・とか。環境も来る人も聴かれ方も、みんな違っているんだなあ。
そのツアーという線上で、あがた森魚は笑ったり飲んだり怒ったり無茶言ったり・・・。ああ、そのツアーの同行者、バイオリンの武川雅寛はいろいろと大変だったろうなあー(笑)

映画は、このツアーからファイナルの九段坂のコンサートまで、もっとわかりやすく、そしてファイナルをもっと感動的に撮る、ということも出来たはずだろうけどあんまりしていない。ライブドキュメンタリーかなと思っていたんだけども、そうではなく、このツアー期間中に見るあがた森魚という人についての映画だったかなあ。
そして密着ということも(映像的には)そんなになく、少しだけ距離をとりながら映していった、という感じかな。
そういえば唐十郎のドキュメンタリーを以前見たけど、あれは唐のキャラクターのせいかな、撮影者も「お前は何者だ、何のためにここにいるのだ」ということを常に突きつけられ、それによってドキュメンタリー製作者たちが「唐組」という集団に巻き込まれざるをえない、そんな風だった。けど、この映画ではそういうことはないな。
あ、やっぱり、唐十郎は常に集団の人で、そしてあがた森魚は映画の中で言ってたじゃないか、「俺はソロシンガーだ。バンドは出来ない」と。

しかし、映画の中で「月の庭」のマサルさんがちらっと映ってたのにはびっくり。

幾つか懐かしくてぐっと来る曲があって・・・。
ファイナルコンサートで矢野顕子と一緒に歌った歌や、昔の曲や・・・。
私は80年代に、そりゃ自分が20歳前にいた80年代は、その時の私にとっては新しく、刺激的で、70年代は旧世代だと思ってて、私にとっての 80年代は宝島でビックリハウスでニューウエーブでテクノでサブカルガンダムでUKポップスでベストヒットUSAでOUTでアランで高橋源一郎で、それなのに私は豊橋の下町の中、木造のおんぼろアパートに住んでる男の子と同棲してて銭湯に通ってて、帰り道にあがた森魚を歌いながら濡れた髪のまま帰って、なんじゃそらこのギャップは、などと思っていたものです。
その時からもう25年経って、随分遠いところに来たような気もする。あの頃思ってたことと全然違う生き方をしているような気がする。
でも気付いたら、あの時に近くにいた人たちは、またネットを通して結構身近にいてくださったり、そしてまた映画でこうやってあがた森魚の音楽を聴いて、遠いと思ってた場所は意外とそうでもなかったり?
それはあがた森魚の60年間の中、いろんな人と出会いいろんな歌を歌い、いろんな出来事をくぐりぬけてきたのに、それでも40年前の仲間たちと一緒にライブやったり、既に亡くなった小学生の頃の恩師の家を訪ねていったりと、生き方や出会う人はそうやってなんかぐるぐる巡るってことなのかしらね。

60歳になったあがた森魚が「赤色エレジー」を歌ったとき、あの「愛は愛とてなんになる」の「あい」という出だしが、1972年にレコードに入っているあの声と、あの繊細さ丁寧さと同じ質で発声されたとき、私は心が震えてしまいました。
や、しかし、あがた森魚は、あの自由にアウトしていくあの歌いっぷりが本当にかっこよくて気持ちよくて、改めてとても稀有なシンガーだと思いました。