「涼宮ハルヒの消失」

結局、私は長門だなあ、と思う。
長門有希に惹かれて、このアニメを観ることを選んだんだった。

例えば、アニメの方、「涼宮ハルヒの溜息」の回でしたっけ、映画を撮るお話って。長門は「有希は悪い魔女」と割り振られてしまうんですよね。フツーの女の子なら泣いちゃうよう。
みくるちゃんは(本人は嫌がっていようが)可愛いコスプレをさせられ、つまりは見られる側、愛される側を用意される。そんなシーンで長門はいつも一人で本を読み、誰も長門を見ていない。勿論、それでいいのだ。彼女は人間ではなく、なんやらゆう地球外の思念の統合体なのだから。それでも彼女は登場人物の中でもっとも幼い肉体で描かれ、その幼い体でたった一人、多くの危機を回避したり、回収したりしている。
「みくるビーム」を回収する長門
長門の住むマンションの一室には、部屋ごと凍結されて眠る未来からのキョンとみくるのいる部屋がある。なにかそこから、どうにも寂しい、どうにも冷えた、静かな空気がしんしんと感じられる。そういう部屋を持つ、長門
1万数千回もループする夏休みの中を、一人、記憶を累積し続けている長門
感情がないのだから、そこに孤独も寂しさもないはずなのに、見ているこちらがそれを勝手に負って、寂しくなる。寂しくて、ドキドキする。

この涼宮ハルヒのアニメは、本当に巧いな、と思うんだ。映画「涼宮ハルヒの消失」を見て、更にそう思った。
多分、いろんな人の様々なツボが刺激されるように出来ているんだろう。いくつか、そういう仕掛けがあって、その一つは「長門」。私は「長門」という存在の罠にハマってしまったってわけだな。
私にとって、映画「涼宮ハルヒの消失」は、累積する孤独が昇華してたどりついた一つの夢。そしてその夢をも回収する絶対孤独の長門の物語、として見たんだ。

まだ明けやらぬ夜、一人立ち、片手を天に向け、世界を改変してしまう。その姿がなんともいじらしくて、恐ろしくて、泣きそうになってしまった。

長門萌え」とかって言ったりするけど、「萌え」ってそんだけで終わってて結構便利な言葉だけど、実際、そこにある感情はなんなんだろ。この寂しさに感応するってことじゃないかしら。感応して、「でもオレだけは長門を見ている」って、そんな感情にさせるのが「萌え」の正体かしら。