チェルフィッチュ「わたしたちは無傷な別人である」

さて、芸術文化センターでチェルフィッチュ公演「わたしたちは無傷な別人である」を観る。私にとっては初めて観るチェルフィッチュ
ほぼ何もない舞台。セットはシンプルな掛け時計が1つ配置された、天井にも届くような白い大きな箱のようなものがあるだけ。これは演劇的に「箱」的なものに使用されるのではなく、本当にただの背景、背面にある壁のようなもの。
女が出てくる。鎖骨がきれいに出ている多分、きれいな体型をしていそうな女性。なのに、あんなに舞台上でひょこひょこ歩く人を初めてみたかも。本当に、ヒールの高い靴でひょこひょこ歩いてきて、止まる。目だけを軽くきょろきょろさせている。
かつての演劇、の話になっちゃうけど、舞台に出てきて客席を見る、ってのには、そこにある種の存在感や目の力が必要とされてきた。もー、それが、すごい。チェルフィッチュ。存在感の意味が違う。違いすぎる。威圧感がなく、しかし意思がないわけでもなく、どこか無遠慮にこちらをじろり。じろり。と見ていて居心地が悪い。
これまでの芝居で感じたことのない種類の居心地の悪さ。悪さが気持ちいい。
そして、明らかに日常ではこんな風に体は無意味に動いている、を抽出したような動き。
そして日常に使うような文章的にはミスの多い言葉で語られる言葉と、日常では決して語られないモノローグ、または小説のト書きのような文章で構成されたセリフ。
そこに登場するとても幸せな男。そしてとても幸せな男の幸せな妻。
「幸せな男の妻」のセリフやモノローグは他の女が声にする。「幸せな男の妻」を演じる女は、白い箱の壁に俯いて斜めに凭れたり、どこかぼんやりしている。もう、すごい。どこにもまだ彼女の不幸など語られてないのに、幸せな男の幸せな妻の「幸せ」など何も見えない。「幸せ」という言葉の意味など最初から見えないままだ。その女の横で不幸せについて語る男。その不気味さが際立っていた。
「私たちは無傷な別人である」、この言葉、「無傷」という言葉が、途中からじわじわとこちらに迫ってくる。
YOUTUBEで見る感じでは以前のチェルフィッチュの動きはもっと大きかったようだ。それに比べると今回は動きの振り幅自体は小さい。しかし、終わったあとの演出家・岡田利規トークにも出てきた「当事者」という言葉だけど、当事者性のない、内向した自分が表現されたような体の動きが、実に実に「現代演劇」であり、すごく面白かったんだ。
チェルフィッチュの公演が終わって、急いで店に向かう。あんなにいい天気だったのに、空は俄かに真っ黒であり、大粒の雨が落ちてきている。