歌人・野口あや子さん

現在、大学生。短歌の世界を駆ける甘党辛口乙女。幻桃短歌会、未来短歌会(加藤治郎選歌欄)所属。野口さんの第一歌集『くびすじの欠片』(短歌研究社)は現代歌人協会賞最年少受賞。
カウンターを介して、野口さんの視線の先を私も見たり、思考の尻尾を追いかけようと私もちょっと小走りになったり、そういう時間が至福です。

『ひらひらと』
「六十歳の離れた短歌の師匠・松村あや先生が十数年ぶりの歌集を出版された。
板橋を渡らんとしてひらひらと戦ぐ両手に静脈の浮く
                       『あらせいとう』松村あや
ここ最近まで、歳を重ねれば安定するし不安はなくなると思っていた。だが、松村先生の歌集を読んで、必ずしもそうではないと気がつく。祖母より年上の師松村先生も、やはりまだ、石橋ではなく、板橋の上を、ひらひらと渡る心地なのだ。
 どうしてそんな心地になるか。それはやはり、どうしても、この世が儚いからだ。どれだけ愛している相手とも、いつかお別れの時は来るし、あるものはなくなる。それは、歳を重ねるほど体験することで、そういう意味では若い者より年上の者のほうがしんどいのかもしれない。この世は、生き慣れても生き慣れても生き慣れ切ることはない。だれでもとまどうし、ゆらぐ。
 それでも、歌の中で松村先生の手は、板橋の上でひらひらと舞うように戦ぐ。そのしぐさにわたしは色香さえ感じる。ゆらぎは舞いであり、ゆらぐ場所はゆらぐからこそ、居場所なのだ。
 もし、わたしたちに生き慣れる手段があるとすれば、それは、この世のそこここにある板橋という居場所で、何度も何度も手をひらひらとさせて渡るそのしぐさと、そのあやうい自分をきちんとものにするということなのかもしれない。
 わたしがマタハリに通うのは、マタハリという優れた板橋を、胃とこころで、あやうくうつくしく渡れるのがうれしいからだ。そしてわたしたちは、お腹が膨れたら、もうすっかり上機嫌になって、柚子茶を飲む。あいもかわらず、生き慣れない手で、ひらひらと。」