川上未映子「すべて真夜中の恋人たち」

群像 2011年 09月号 [雑誌]

群像 2011年 09月号 [雑誌]

激しい期待を込めて、そっと群像1ページ目をめくる。
三束さん。誰だろう。冬子さん。これが「わたし」ですか?
やわらかな文章。
「発光地帯」に掲載された文章に時折あるのと同じ、私にはゆっくりと回るワルツにのって聞こえてくるような言葉のリズム。
その音に乗りながら、早速私の思考がノイズを発していく。
これまで読んだ、未映子さんの短編から長編までのすべての出だし。それと無意識に比較し始める。

。。。。。。
これまでの未映子さんの作品は、私にとっては短編ならば2段落ほどが、中篇以上ならば最初の2〜3ページまで、目で文字を追っているのに読むそばから意味が捕まえきれず、イメージが焦点を結ばず、それでも必死で文字を拾い集めるようにして読み進めていきました。しかし突然、何かがぱかりと開け、そこからイメージだの意味だの面白さだのが奔流のように押し寄せてくるから、なにやら勿体無くてすぐにその流れに乗らず、もう一度最初から読み返してみるのです。すると今まで見えなかった景色が見え始め、私はそこから止めることも出来ないまま読み進めていくのが常でした。
そういった体験が、気が付けばこの「すべて真夜中の恋人たち」には、ない。ここ最近の「発光地帯」に見られるような、するすると入ってくる文体。
美しい1ページ。
その後、未映子さんの小説でかつて見たこともなかった、話者の色をあえて伏せたような、とても平板な会話が中心の2ページ目。
「段ボール着いた?」
というセリフから始まる段は、なにか薄くて嘘っぽい光が差し込む部屋で繰り広げられる、まるで月9のドラマのような印象です。「おっしゃるとおり」なんて言葉が、それに拍車をかける。
この会話と、茹でたスパゲティにレトルトソースの食事、ターバンであげる前髪、そういったものが「わたし」のイメージを作り上げていく。職場の様子、聖との出会いや彼女との会話。
人とのコミュニケーションにおいては少々不器用だけど仕事熱心であり、そしてデキル女。その彼女と仕事上のパートナーになる美人の聖。
そんなイメージでするすると読み進めていったのです。


それが。
聖が際限なく喋っていき、そしてただ聞き役となる「わたし」のシーンから、これまで読むなかで築き上げてきたイメージがぱらり、ぱらり、と剥がれていきました。
剥がれていった先に、ああ、やはりこれは紛れも無く川上未映子の小説だ、というものが見えてきたのです。


いつの間にか増えている酒量についてなど、読者がこうだと思っていた世界が気付けば少しずつずれていってしまってるような面白さや。
最後にぐっさりと刺すようなことを言う現実だとか。
「わたし」が触れていく、人と人の距離の感覚だとか。
「感覚」に関するあれこれに引き寄せられて、どんどんと読み進めていきました。
。。。。。。
気が付けば、登場人物は皆、どこか過剰です。
その過剰さは、「わたくし率 イン 歯ー、または世界」にもっとも顕著だったと思います。あの小説のようなけれん味は、作を重ねるごとに抑えられ、今作の最初のほうはまるで、その漢字とひらがなの量に特徴あるものの、川上未映子のものではないような、そんな印象でした。ところが、とても繊細に、最初抱いたイメージを裏切っていく。一人の人の光の当て方を少しずつずらしていき、そこにある歪みを炙りだしていく。読者が最初に見せられる像を繊細にずらしていくのだけど、そこに生じる面白さだとか、そのずらす曲線の美しさだとか、これは川上未映子ならではじゃないでしょうか?

。。。。。。
川上未映子の作中の女性(子供含む)は、大抵みな過剰な何かを抱えています。それら登場人物の姿はどれも自分ではないし、その人の言うことや行動に「それはどうなの?」と思う自分はいるのだけど、何故かそこに圧倒的な共感が生じることも確かです。それが、川上未映子の小説の強さではないでしょうか。
共感、です。
それらの人物に対して読み手として客観的な批判性は持ちながらも、それでも彼女たちの哀しさや抑圧やどうにもならなさが、かっこわるさやダメさや醜さが、切実で切実で、登場人物の気持ちに沿い、自分との境界線が薄れ、共に感じてしまうこと。
何も大きな事件は起こらず、未映子さんの過去の作品と比較すると目に見えて大きな仕掛けがあるわけでもないこの小説は、実は大きなうねりを持ち、私はその大きな波の中でどんぶらどんぶらと翻弄されながらも、今いるところから違う場所にある浜辺にたどり着いたような、そんな読後感でした。