キム・ギドク「アリラン」

キム・ギドク監督は一体どうしたのだろう最近作品を撮ったという話を聞かないが・・と思っていたのだ。2008年以降山に引きこもっていたということが2011年にこの「アリラン」をカンヌに出品したことで多くの人に知られることとなる。
この映画は、たった一人で山で隠遁生活を送るキム・ギドク監督のセルフ・ドキュメンタリーです。
撮るのは自分。撮られるのも自分。
しかし、最初のシーンではっとする。
目の前の静物を撮っているのは監督の手持ちカメラだろう。しかし、家から出る監督を撮ったのは?ああカメラを据え置いて撮影したんだ。しかしすぐにまた違う場所、違うアングルのシーンが続く。猫を撮ってるのは再び手持ちカメラか。
朝、家を出て外で水をくんだり洗顔したりというシーンを撮るため、監督はきっとファインダーを覗き、アングルを決め、カメラを置き、ボタンを押し、そしてその中で日常の動きをする「キム・ギドク」を演じている。
彼はカメラの中にどこにも動けなく映画を撮ることが出来なくなった自分自身をさらけ出す。自分に問いを置き、答えを出させる。話す自分。それを撮る自分。撮られた自分を編集する自分。その編集する自分を撮った映像をまた眺める自分・・。自意識と客観が永遠の合わせ鏡のようになっている。
何も出来なくなっているという精神状況、なのに映画自体は細かいカット割りで自分と環境を映し出し、この分裂具合がもうすごいとしか言いようがない。
キム・ギドク監督の「春夏秋冬、そして春」は私も大好きな1本だ。その映画を監督は観ている。そして顔を真っ赤にし声を上げて号泣する。この映画を観てこれほど号泣する人は世界中探してもこの時のギドク監督以外いないんじゃないか・・という気がしてくる。映画は、誰のためでもなく何より自分のためではないか、と思えるシーンだ。
大なり小なり、はあると思うが、誰しも世界と隔絶したい、引きこもりたい、誰の顔も見たくない・・という精神状況に追い込まれることはあったはずだしこれからも訪れるのだろう。それのもっともひどい状況がいつか私の身の上に訪れた時、私はこの「アリラン」を再度観るべきだなあ。