「この空の花」


今夜は大林宣彦監督「この空の花」を観て来ました。。。
すごく大きな声で言う、よりも、近くにいる人にそっと囁くように言いたい。
「この空の花」、良ければちょっと観にいってごらんよ、と。


大林監督の作品はずっと昔から大好きです。
映画の中のとてもとっても小さなカットの中に、大林宣彦監督のなにかしらの遊び心なのかなんなのか、そういう気持ちを感じる。例えば終わり近くのシーンの何故か小走りするような足だけのカットとか。それは決して小走りになるようなシ−ンではないのに、足だけが小走り。突然挿入される小さな違和感。それは大林監督の長年のファンには見知った風景のような感覚。そんな大林監督が作る独得のリズム感に出会うたびにとても嬉しい気持ちになるなあ。
大林監督は時に、「映画」というフィクションの中に納まりきれない「現実」を重ね合わせる。そんな時、フィクションの枠が軋み、綻び、涙を流す。それさえも大林監督は映像にする。私はそういうところが何より好きなのかもしれない、と今日の映画を見ながらそう思った。
例えば中国留学生と深く関わっていったある八百屋の一家を基にして描かれた「北京的西瓜」は大好きな1本だ。映画のクライマックスで、実際には八百屋の親父は昔世話をした留学生に誘われて訪中したので作品もそうなるはずだったが、「現実」は天安門事件のため、撮影スタッフは中国には行けなかったのだ。映画の物語の中にいた親父は、いきなり俳優・ベンガルの顔になり、スクリーンの向こうから観客にその事態を説明する。「映画は、現実には追いつけなかったのです」と。
また過去の作品のいくつかでは、映画の物語の中に、監督の「映画」や「映画館」への愛情をもうひとつの物語として重ね合わせたものだとか。

この「この空の花」も、常に物語性と現実・現在性、及び変わらぬ過去とが格闘している作品です。今、私は、物語と、過去+現在を二極化して書きましたが、では「物語」というのは「未来」と言ってもいいのでしょうか。少なくとも、この作品においてはそうなのかもしれません。

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