「桐島、部活やめるってよ」

今日は「桐島、部活やめるってよ」を観にいきました。

神木くんの細かい芝居とモテない役が最近いいなあ。頭悪そうでいい人そうな野球部キャプテンがいいなあ。ゾンビシーン、すごくいい!あの女子たちの感じも、あの男子たちの感じも、「部活」に対するスタンスも、なんだかとてもよくわかるような気がする・・。

ここ最近の映画で、「理由はわからない」っての、多いですね。例えば「生きてるものはいないのか」。何故人がどんどん死んでいくのか、その原因は何一つ誰一人知る間もなく全員が死んでいく。
または「少年は残酷な弓を射る」。少年は何故母親を憎んだのか、それは本当に憎しみなのか、そして何故彼は事件を起こしたのか。登場人物である少年の母親も、そして観客も、何一つわからないのだ。
この「桐島、部活やめるってよ」も、桐島がどうなったのか、何が原因で何が起こったのかわからない。
起きた出来事に答えを見出して終着点を得るということだけに価値があるわけではない。考えてもまだわからないという状況、またはずっとわからないままという状況もある。世界への認識はそんな風に変わっていってるのを表しているように思います。

高校の中に起きたある1つの事件。そこからそこに通う高校生たちをいろんな視点から見ていくという手法。名前を知ってる俳優は神木隆之介くんぐらいであとは誰も知らない。しかし誰が主役というわけではなく、ちゃんとそれぞれがそれぞれの世界での存在感を出していてとてもよかったです。
高校って・・狭い場所に世間的には子供であると設定されてる大人のような男女がみっちみちに入ってて、細かいスケジュールで動かされてるし、いろんなことが大人の指示で決められてるし、「人生最後のままならない場所」でないの?改めてものすごく抑圧的な場所だと思ったよ。そういえば高校1年の時の私は、クラスに馴染めず、つまりは学級内ヒエラルキーでは下層部、そして部活の中で生きていて、ちょうど神木くんたち「映画部」的存在でしたわ。
ただ、この映画を観ていると、自分自身の高校時代を細部まで鮮明に思い出す、という話をいろんな人から聞いてたのですが、この男女みっちみち感とか、私にとってはビミョーに、「ああ、そう・・なのかもね」な感じでしたのよ。映画見終わった武田も、映画的な面白さを語ったあと、
「でも、わしにとってリアリティがなかったんだわー」と言う。
「わかる!絶対そうだと思ったよ。だってあんた、男子高だもん」
「そうなんだてー。『あの子と最近、よく目が合うんだよね』とか、わしには全然ピンと来んもん」
「私も、夜間だったからそうなんだわー。クラスは女子ばっかりだったし」
とか話してゲラゲラ笑った。
私は高校2年から定時制高校に変わり、そこでは普通科は女子ばかりだった。授業が終わるのは夜9時なので部活も殆どなく、受験勉強もなかった。
そんな私たちに、あの風景の中で密接に心揺さぶられる既視感はない。しかしそれぞれの関係性についての微妙な感覚はわかる。そして、このことだけはとてもよくわかる。
「俺たちはこの世界で生きていかなければならないのだから」という言葉。たとえ今いるどこかでは自分の居場所は危うくても、別の場所に自分の小さな世界はある。たくさんの人間の中でうまくいかなくても、世界を共有する他人のいる場所はきっとある。その場所を見つけ、この世界で生きていかなくては。
そうだな、そうやって私は生きてきたよなあ。
そして実は今も、そうやって生きてってるんだよなあ。わからないことやままならないことに満ちた世界の中で。