「すばらしい骨格の持ち主は」

ちょっと前に新潮2009年7月号に掲載された、未映子さんの「すばらしい骨格の持ち主は」を読みました。
それはまるで未映子さんの日常の随筆のように思ってしまう。彼女のブログをずっと愛読している私にとっては、そこにあるその短編の中で書かれている時間や場所、出来事に既視感を感じ、驚きました。
作中にある「大阪での芝居」、それは多分、2007年のロヲ=タァル=ヴォガの公演のことではないのか? 未映子さんはその序幕で坂本弘道さんとライブをやったんだ。私はそのチラシを誰かからいただいて、店があるから行けないのだけども、ドキドキしながらいつまでもそれを見ていた。そういう記憶が立ち昇る。
その後に書かれている出来事も、ああ、これはこんな時、その時の私はこんなことをしていた、未映子さんのブログにはあんなことが書かれていた頃だ、そうだ未映子さんがうちの店に来てくれた時は、この頃だな、などと思い、とても近しい人と共有した時間を読んでいるような、ものすごくものすごく近しい気持ちで読んでいた。
読み進めていくうちに、ある部分でぎょっとする。
違う、これはホントにホントのことではない。
どこかはホントにホントのことだけども、どこかからはきっと、まったくの創作だ。
ここに書かれてる「私」も、大阪での芝居、賞をとったこと、いろいろあれども「川上未映子」のようだけども違うのかもしれない。
で、「ホントのこと」は置いといて、ただ、何かしら「近しさ」は、やっぱり在る。
それは「ホントのこと」に近いからかと思ったのだけども、そうではなく。
「わたくし率 イン 歯ー、または世界」では、カテゴリーはなんて言うのかしら、幻想文学と言って間違ってはいないかしら、スピード感や、場所、モノ、出てくる人たち、それらは「すばらしい骨格の持ち主は」の世界とは違っている。
それでも、私はなにかしら激しい「近しさ」を感じて。
なんだ、私はいったいなにを受け取っているんだ、と2007年のちょうど今頃に読んで以来、考えても考えてもまだなんにも言葉になっていない。
それ以後、ずっと未映子さんの作品を読み続け、それぞれ「いい!」とか「好きだ!」と感じ、その「いい」やら「好き」やらは、他のものとはちょっと別種で、いや随分と別種で、違っているからそれを自分で納得できる言葉にして考えたいのですけれども、それがまったく出来ないままなのです。

未映子さんの作品の中には、いったい何があるんだろう。
私はいったい何にこんなに反応してるんだろう。
人と、私とはきっと違って、誰かはいったい何を? 私はいったい何を?