7月10日 「群像」を買う

群像 2009年 08月号 [雑誌]

群像 2009年 08月号 [雑誌]

昨日買ってきた「群像」8月号。
右に縦書きで、

群    像

雪の中に立っている鉄塔の写真。
そして左に縦書きで、

川上未映子 『ヘヴン』

その文字の大きさは、「群像」より小さいのだと今知った。
でも私は書店でそれを初めて手にした時から、そして読みかけたページに栞を挟んで一旦閉じたこの雑誌を目にするたびごとに、川上未映子の名がものすごくものすごく大きく見えて、なにやら特別な感じを持って私に突き刺さってきていたのです。

「『川上未映子』という、その字面やらバランスなのかな?」
と考えたのだけども、結局、ものすごく単純なことに気が付いた。
好きな人の名前は、いつでもものすごくくっきりと目に刺さってくる。そしてその名が何かとても特別な印象を与えてくれるんだ。私はよく、店に貼ってある未映子さんのサインを眺める。そこにある「川上未映子」の文字は、もうどれだけ見てもいつだってはっとするのだ。今日改めて気が付いたのだけども、私は本当にあの名前を、どれだけ飽きずに眺めていることか。
私が未映子さんのことが好きだなんて、自明のことだったはずなのに、そういう角度からまたそのことに気付いて、なんだかため息が出た。ああ、私はそういうふうに好きなんだ、と。

私は未映子さんの作品を読むと、他の作家の作品を読んでいる時には決して思わないことを思ってしまうのです。
小説とはなんだろう、普段私はどう読んで、どう感じているんだろう、そして一体私にとって未映子さんの作品は何が面白いと思い、何が好きだと思っているのか、と。
いつもいつも、それを思い、そしていつも、これはすぐには答えは出ないから、今日もまたそういう問いが自分の中に起こった、ということだけを考えて、答えを出すのはあとにしよう、と、そういうことを「わたくし率イン歯ー、または世界」の時からやっています。
世界観、話の筋、構成、言葉、登場人物に対する共感・・・、そのどこに反応するかはいろいろなのだけど、その「反応する」ということ自体に深く疑問を挟むことなく、その面白さを受容している、普段は。未映子さんの作品以外は。
ところが未映子さんの作品は、私にとって、もうなにやら特別すぎて、じゃあ何が特別だというのか言葉で表せと言われると、表せそうなのにちっともそれがうまく出来ない、そういうジレンマに陥ったままなのです。
今日も「ヘヴン」、読みながら、もういい、「なんで?」とか「なにが?」と何故考えねばならないんだ? そんなことを一切放棄して、ただ私はここから受ける様々な「何か」をただただ受け取ればいいのだ、と思ったり。でもやっぱりまだ何か言葉にしたくてあがいてたり。
そういうことにじりじりしつつも、じりじりとこのページに張り付くようにして途切れることなく読んでいたい、という粘っこい熱情を抱えながら家に帰ってきました。