7月21日 1回目読了後の感想

もしかしたら今から書くことは「ネタバレ」というものかもしれない。
感想はきっと読む人それぞれなので、読んでいただいても何の支障もないかもしれないし、でももしかしたらこれからの読書を著しく損ねるかもしれない、です。


●先日の「情熱大陸」で、未映子さんが執筆中のその時にぶつかっている障壁について語る。その口調も雰囲気も、まるで子供が泣き言をいうように。録画してないので正確ではないけど「もうダメ〜!」みたいな感じで。
瞬間、そのあとに続く言葉を想起した。「もう書けない」「話が浮かばない」などなど。
でも、違ったんだ。
「一体、私が小説を書く意味ってなんなの?」だった。
それを聞いて私ははっとした。
私はいつも、未映子さんの作品を読みながら「小説ってなんだろう」「これをいいと思っていることはそのまま事実なんだけども、私のどこらへんが何に反応してこれをいいと思うんだろう」と思うんだ。「いい」と思う感情と並走してそんなことを思ってしまうからなんだ。
そのことはきっと、未映子さんが書きながら「小説ってなんだろう」ということを考えていることと、何か関係があるのかもしれない。

●読んで、すごく良かった。いろんな人に薦めてしまう。
そして、すごく苦しかった、読みながら。
くるぱみん。
苦しいときに出るドーパミンの「くるぱみん」がにりにりにりにりと垂れ流れてるようだった。
「苛め」に関する話。
私はこんなに不条理で相手の快楽のためだけに行使される暴力を受け続けた経験は、ない。
共同体のスケープゴードであり続けた経験は、ない。
ある種の暴力なら、あった。
なんとなく共同体に入りそびれて、浮いたまま孤立してた時期は、ある。
けど、どう考えても、この物語の少年とコジマのようでは、ない。
なのに、彼らに関する描写が、それがもう自分のことのように、自分の過去と、または自分のものすごく身近な人のように思えて、とても他人事ではなく、ああここには嘘などなにもないと思いながら読んでいた。
そして、ふと気付く。「嘘などなにもない」なんて言って、少年もコジマも私ではないのに、どうしてそんなことが言えるんだ?と。

●そう、この作品は、つまりは、そんな話。

●そして彼らを苛める側の人間に対して、ただのこれっぽっちも共感が得られなかった。まるでどこかで観た映画やドラマの中の人のようだった。
私は彼らのような存在を見たことがない。美しくて、人気があって、成績優秀で、仲間を笑わせることが好きで、支配欲が強くて、そしてこんな風にスケープゴードに対してとことんまで貶め、人の尊厳をどこまでも踏みにじり、それに対して何一つ良心の呵責を感じない人間と、現実には会ってない。
けど、それは本当なのか?
更に更に考えてみる。例えば自分の過去をいろいろと攫ってみる。
人は誰でも自分が正義の人だと考えているようなので、実はこういう彼らのような感情、または行動があっても、すべて何らかの理由付けで正当化し、しかるのちに蓋をしてないか?
「こんな人、見たことがない」ではなく、自分の中にいて、見ないようにしている何か、ではないのか。

●と、そう、これは、そんな話なんだと思う。

●コジマには意思があり、身体がある。
少年には意思があり、身体がある。
二ノ宮には意思があり、身体がある。
百瀬には意思があり、身体がある。
みんな、そうなんだけども。
けれども、コジマは、意志の力で、身体を変えようとしている。
少年は、身体の特質により意志が制御されている。
二ノ宮には意思はある、筈なのに、まるでどこかに預けっぱなしのようだ。ほぼ、身体理論で動いている。
百瀬は立派な体をしている、筈なのに、体がどこかに消えているようで、意志だけが腕組みして仁王立ちしている。

●仲間を見つける。共有したい。わかってほしい。
けど、彼ら4人がこんな風に違うように、
決して共有することの出来ない世界。
では何もかも重ならないかといえば、そんなことはない、淡い、重なり。淡いけれども、とても大切な、小さな重なり。

●小説ってなんだろう。
この作品って、なんだろう。
泣ける。めちゃくちゃ泣けて、でも、なんかそういうことではない。
泣いてしまって、でもその向こうにある、もうちょっと怖いもののこと。ちゃんとちゃんと、自分の中を見ているはず、知っているはずと思いつつも、捨ててきたもの、あえて見えなくしていたものが自分の中でギロリと覗く、これはそういう怖い作品。