「カケラ」


安藤モモ子監督の「カケラ」についてあれこれ思い、友人にメールした。ほぼ書き終わった頃に気がついた。大変当たり前のことだけど、感想なんていうものは、対象の中の何かが自分の中にあるなんかにフィードバックしてくるということで、だから感想なんて本当に個人的なものだね、ということだ。そういう個人的なことを誰かに向けて書くということに意味があるのだろうか?と思ったり。
で、この映画の感想の最後の最後の結論を先に言うと、そういうとても個人的で自分の古いところにまだ残っている核をすごく揺さぶる作品だし、そしてそのことを誰かに思わず話してみたくなる映画だった、と思う。

冒頭。
ハルは一人暮らしの部屋で目覚めた朝、扉を開けっ放しにしておしっこをする。
それから、リコに出会い、初めて2人で遊びに行った時、ハルは突然生理が来てしまう。
映画の前に原作の「ラブ・ヴァイブス」

LOVE VIBES (YOUNG YOUコミックス)

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は未読だったのですが、これらのシーンを観ながら、きっとこれは原作にはないのじゃないかと思いました。
桜沢エリカがああいうシーンを必要とするとは思えないから。
安藤モモ子が、「ねえ、いーい? アンタタチが『女の子』って呼んでるイキモノは、人の目がなかったら扉開けて排泄することだって、あるかもよ?」と言いたかったりして。
生理のシーンなどは、いろいろが女性からしたらなにやら自然な展開ではなく、どこか男性目線を意識したような説明的な感じを受け、そこに生じたちょっとした違和感が払拭できなかった。
けどさ、リコがスカートについた汚れを手で払う仕草が良かったの。リコの足がガニマタになってるのね。男の子がそばにいる世界で女の子は、あんな風にガニマタにならない(という認識は幻想かもしれんし、現実かもしれないけど)。
でも、レズビアン---だけども「女性共同体の住人」であるリコにとっては、例え好きな女の子がそばにいたって足をガニマタにしてスカートの汚れを払うことは平気なのね。リコにとって恥というのは、そういう外面のことではない。同性同士、いろんなことはもうわかっちゃってる。女の子だって人目さえなければ扉を開け放しておしっこするし、生理になれば不恰好な仕草で下着にナプキンを装着せざるえをえない。そういうことは恥ではなく、彼女にとって恥なのは、自分の意思に素直ではないこと、なのだ。そんなことを、あのリコがスカートを払う仕草で表現してるように思い、そういう安藤モモ子監督の切り口がすごくいいな、と思ったんだ。

また、レズビアンであるリコはいつもスカート姿で、ハルはダボダボのパンツ姿。
リコは「なんでスカート履かないの? スカートって楽だよー?」と言う。ちょっと面白いセリフだなって思ったんだ。これも監督が、「ねえねえ、女ってさー、ホントはこういうもんなんだったりもするんだから。幻想持ってんじゃねえよ、男!」みたいなメッセージのひとつだと思った。そして「そういうことをバラしてやるから、女!」みたいな気もした。
スカートに対して男性も女性もそれぞれの思い入れがあるわけだけども、しかしその中には、「だって楽だから」という怠惰な選択も含まれるのだ。そうなんだわ、スカートって楽なのよ。特に排泄においては。あと暑いときは。
女である私は、なんで男の人はさっさとスカートはいて「楽」を手に入れようとしないのかしら、と不思議に思うほど、スカートって合理的だと思ってた。
そういう「楽だから選択」という発想は、きっと一般男性にはなくて、安藤モモ子は様々な切り口で男性が持ってる女性への幻想という視点も視野に入れつつ、女性の現実を描きたいんかなと感じました。

安藤モモ子はこの映画で、男子に対しても、女子に対しても、愛情と同時に復讐してるようで、それは「アイシテル」と「コロシテヤル」が同居しているようで、そういう空気がハルの男の部屋の中に、ハルの部屋の中に、リコの家の中に、リコの部屋の中に、ポルノを流すお店の中に、充満してて、映画を観ながら私はかつての息苦しさを思い出したりしてた。

「会ってセックスして、会ってセックスしてばっかで」のセリフ。
ああ、なんか女の子ってよくこういうこと言うよね。
私は言ったことないけど。
セックスしてるだけじゃいやなの。いちゃいちゃしてるだけでいいし、ずっと話を聞いてて欲しいし、その手が欲しい時にはいつでも頭を撫でてもらったり抱きしめてほしいだけなの。
みたいな、女の子のキモチ。
そのキモチを、この映画は、肯定と否定、または共感と軽蔑の両方一遍にやってる気がするのね。そういう立ち位置が、この映画を甘くせずにいて、好きだな。
しかしなー。セックス。
「会ってセックスしてばっかで」という女の子(ハル)ですけど、結局はセックスがないと進めないのかな。
リコが私の話を聞いてくれる、そばにいてくれる、と思い、リコに優しくされるのは気持ちいいけど、リコとはセックス出来ないのだよね。

私は好きな女の子とは、手を繋ぎたい、腕を組んで歩きたい、キスしたい、体に触りたい、と思う。髪や頭や胸や太腿やお尻は触りたいと思うのだけども、ところが「あそこ」ですね、それは突然、「無理!!」と思う。
キスならしたい。キスならしたことは何度かある。舌を絡ませるのも抵抗もないし、したいと思う。けれども、「女性のあそこを舐める」とか、もう絶対に無理無理!! すごく不思議。当たり前のことなのかもしれないけれども。男の人のだったら出来るのに、女の子のことだって好きなのに、でも私は女の子とセックスできないってことに、なにか自分に対して敗北感みたいなものを感じるんだよ、なんでかな。

で、「会ってセックスばっかで!」と言うハルなのに、そのセックスが不可能という障害の前に、リコとの関係はもうこれ以上は進めなくなってしまうのだなあ。
リコはだって、ハルとセックスもしたいのだから。
セックスは人を繋ぐし、そして断絶もさせるんだな。

ついつい、彼女たちがこの作品の中でハッピーエンドになればいいと思いながら映画の中の時間を過ごす。喪失はいつだってつらいから。
でも、現実にはハッピーエンドなんてものはなく、いつだって先へと続くのだ。リコはもっと体も心も一緒になれる相手を求めて。ハルも、自分は何を求めているのかを今一度探すために。